2012年10月15日月曜日

純文学対大衆文学

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は有名な短編として純文学に含まれていると思います。エリオット先生がおっしゃったとおりこの作品は最も有名で、日本人だったら誰も知っているはずです。その上、教科書にも出ているような作品でした。

私が「蜘蛛の糸」と言うタイトルを初めて見た時、前どこかで接したような気がしました。やはり有名な本ですから。作家が亡くなる前のビデオを観た後は作家がかわいそうだと思いましたけど,彼の最後の発言が私を深く考えさせました。をの発言は(ただぼんやりしただけである)最近の若者達にもとても心に当たる発言だと思いました。社会に出る前の学生の立場はなんだかぼんやりとしているはずです。ここで,最も重要に当たったのは彼が純粋に表している自分の気持ちだと思いました。この短い文の中には、彼が苦しんでいた事が明らかにうかべていると思いました。自殺した作家を接するのは彼が初めてだったのでもちろん私は小さなショックを受けました。

はじめの「短編として純文学に含まれていると」思っている事に述べます。「蜘蛛の糸」を聞き始めたとたんまたどこかで聞いたような気がして聞き込みました。テイプを聞いてまた読みながらこの短編小説の終わりとかあらすじについての推測がつきやすいと思いました。昔、読んだ物がらりと似ているあらすじだと思いましたからです。純文学にはなんだか人々が良く知っている筋が含まれていると思います。主人公の最後が想像出来たり、また純文学は最後には必ず主人公を通して意味を直接表しています。蜘蛛の糸ではかんだたが自分だけ逃げようと考えをして地獄を抜け出す事が出来ませんでした。ここには、人生とか人間関係に対してのレッソンがあります。普通の純文学の物語とやはり似ています。

大衆文学は直接的より間接的に意味を表していると思います。意味を探す事が難しい時もありました。 例えば、多和田葉子氏の「かける」は彼女の精神と意識の流れを読む感じがしました。その他、川上弘美氏は主人公を筋に入り込ませるより第三者みたい人物になり、観察しているような感じがしました。最後の意味に集中するより登場人物とか主人公を描く事と、キャラクタライぜーションに集中していると思いました。でもこれはただ私がこのクラスで今まで読んだ作品だけを使って分離した考えなので正しくないかもしれません。これは今私が思いついた事で後で他に日本文学をもっと勉強したらこの意見が固まるかもしれないし、もしくは変わるかもしれない事です。

ー伊藤恵璃

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